[Edit]

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[Edit]

行く春

春は別れと出会いの季節だ。

もう初夏と呼んでいい頃だから、だいぶ時期遅れの話題だけれど、でも僕は思うのだ。そのさ中にいる人ほど、春の別れのことを、気づかず過ごしてしまうのではないか、ただ時の流れるまま自らも流されているのではないか、と。

自分の過去の、高校や大学の卒業式を振り返ってみると、さびしいとか悲しいとかいう感情よりも、なにか忘れ物をしてきてしまったような、情けないようなどうしようもない気持ちになったことを覚えている。それは、僕の目がすでに、未来の新しい生活に対する期待や不安に向いているためで、そんな別れの儀式のさ中にも、過ぎ去った日々、別れる友、自分が去っていく場所に対して惜しむ気持ちよりも「忘れモノ」と同じ感覚を抱いたのだと思う。程なく、新しい生活新しい出会いに慣れることに必死で、別れを悲しんだり思い出したりする隙は時間的にも精神的にも与えられず、あれが別れだったと気づくのは、もうずっとあとのことになるのだ。

卒業とか就職とか、明確な区切りのようなものが仮になかったとしても、新しいことを始めるときは人は気づかぬうちに自分の持っているなにかと別れている。何かを得るためには、何かを捨てなきゃいけないとよく言われるけれど、ある知人が、新しくモノを買うときには古くなった同じモノを捨ててから買う、と言っていて、物が捨てられないタイプの自分はそんなの無理だと思っていた。でも今はそれがよく解る。きちんとモノを捨てられる、モノを簡単に捨てずに大事にするということは言い換えれば、振り返らずに歩くということ、自分を見失わないということだ。

しかし、人と人とのつながりや、記憶や想いは決してモノを扱うように自分の思い通りにはできない。過去と未来は等価交換ではない。自分の想い描いた通りの道を進み、何かを得続けていると思われる日々のうちに、僕たちは気づかぬうちにかけがえのないものを喪失し続けている。忘れたくないはずのものも、忘れてしまっている。

もちろん、忘れずに自分の中に残り続けるものもある。デビルズフードという言葉があって、たとえばアイスクリームとかチョコレートとか、いつも手元においてそれがないと生きていかれない食べ物のことを言うみたいだけど、僕の場合はそれが煙草だと思っていて、それなのにあっさり止めてしまった。甘い物も大好きなはずだったのに、砂糖断ちも全く苦に感じていない。それなのに、麻雀は止められなかった。僕にとって忘れなかったもの、手放せなかったデビルズフードは麻雀だったようだ。

ところで僕は、普通よりも少し、出会いと別れが多い場所にいる。そういう場所だと理解していたし、自分もいつかここを出て行くことになるのだから割り切っているつもりだった。ある朝、Hさんというおばあちゃんの退院を告げられたとき、僕はHさんの肩に縋って泣きじゃくってしまった。親しい人たちが慌てて駆けつけて「退院は喜びこそすれ、悲しんではいけない、泣いてはいけない」、と諫めてくれた。でも、Hさんは僕がどうしようもなく不安になってしまったときに、手を握ってくれたのだ。別れの日の、数日前のことだった。人は、出会いと別れを繰り返すうち、自分にとって大切なものは何か、何を忘れてはいけないのかわかってくるものなのかもしれない。決して離してはいけない手が、存在するということを。

僕は大切だと思っていた人たちから離れて久しいけれど、それでも僕が大切な人のことを想うとき、僕の手は温かくなるのだ。ありがとう、この温かさがあるから、僕は前に進んでいけると思う。

スポンサーサイト


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。