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地震に寄せて

  • 2011-03-28│
  • Plot
たった一人の人との出会いが、その後の人生を変えてしまうことがある。

小学生の時に、神戸から来た男の子が転入してきた。すらりと背が高く、運動神経も良くやさしい雰囲気だったので、たちまちクラスの女子の人気を集めたけれど、私は「服のセンスがいい子だな」と子供のくせに生意気な印象を抱いただけであまり気にも留めていなかったし、無関心なほうだったと思う。

そんな彼と、意外なところに共通点があった。図工の時間に、私は彼の描いている絵を見てあまりの上手さにびっくりしてしまった。絵を描くことが好きだった私は、その頃すでにポスターや絵画コンクールの常連で、同世代で自分よりも絵の上手な子に会ったことがなかったのだ。うぬぼれ心もあったのだと思うが、彼の絵のうまさに少なからずショックを受けた。それでも私は素直にO君に「上手だね!」と褒めると、「そんなことないよ」とはにかんだ笑顔が返って来た。

描き上がった絵が教室の廊下に貼り出されたのを見たとき、私は目を疑った。自分の絵に、クラスに一人選ばれる金色の印が付いていたのだ。私は憤慨して「どうして。私よりもO君の絵のほうが、ぜんぜん上手なのに。先生見る目ないよ」とO君に言うと「そんなことないよ、Tさんの絵のほうが上手だよ、それに、」言いかけてO君は少しためらった。「僕は、色を塗るのが苦手なんだ」私はもう一度、O君の絵を見上げてみた。子どもが描いた絵とは思えないような、大人っぽい絵だった。課題は初めて水彩絵の具を使う写生で、全体的に淡く抑えた色味ではあったけれど苦手だなんて謙遜だと思っていた。O君の絵は上手なだけじゃなくてどこか、自分の心に引っかかるものを感じるな、と思いながら当時の私はまだ、それが何かはわからなかった。

次の席替えでO君と私は席が近くなり、班が気の合う子ばかりでたちまち仲良くなった。プリントやノートの端っこに好きな漫画やアニメのキャラを描いて見せ合ったりした。もちろん私は、仲良くできる時間が短いことを知っていたけれど、そうして笑い合う日々がうれしくて、学校に通うのが毎日楽しくて仕方がなかった。

図工の課題が自画像だった時、珍しくO君は描くことに苦戦しているようだった。そして、描いている途中の絵を見られるのを嫌がっている様子だったので、私も自分の絵に集中することにした。先生のアドバイスもあって、私の絵はかなりの力作に仕上がった。絵が貼り出されたとき、私は当然O君の絵が気になった。しかし、そこに貼られていたのは端正な彼の顔立ちとは、似ても似つかない顔だった。今思えばだけれど、その絵は耳を切り落として包帯を巻いた、ゴッホの自画像にどことはなしに似ていた気がする。O君は私のところに顔を赤くしてあわてて走り寄ってきた。「見ないでよー」と言われて、「わかった、わかった」と笑って一緒に教室に入った。確かにその時の私には、見てはいけないものを見てしまったような、気まずい気持ちがあった。

別れは突然だった。月曜日に学校に行くとO君の机の中味はすでに空っぽで、担任の先生がO君は神戸に帰りました、というようなことを言った。わかってはいたけれど、お別れも言えなかったなんて。O君が阪神淡路大震災のために東京の親戚に預けられていたことは皆知っていたけれど、おそらく、彼に地震のことを尋ねた人はいなかったと思う。彼がどんな気持ちで家族と離れて暮らしていたのか、聞いた人はいなかっただろう。私たちはただ、一緒に笑ったりふざけたりするしかできなかった。自分が彼と出会ったときに無関心になろうとしたのは、仲良くなれば別れが辛くさびしいことを短い経験で知っていたからだったことに、今更ながらに気付いたけれどもう遅かった。壁に残されたままのちっとも似ていない自画像を見上げて、余計にさびしくなったりした。

私は中学から美大の附属中学に入学した。絵の上手な子はいっぱいいたけれど、O君のように逆立ちしても叶わないと思わせるような絵を描く子はいなかった。お互いの絵を褒め合うような友達はできなかった。絵を描くことが好きでたまらなくて入学したはずなのに、これでいいのだろうかという気持ちが生まれてきた中学二年生の時、書店でたまたま手にとった本に衝撃を受けた。その本は、阪神淡路大震災後に被災地の子供たちが描いた絵を集めたものだった。絵を描くことによって言葉に出来ない感情がそこに現れ、そして時間の経過と共にゆっくりと、絵が変わっていくさまも見て取れた。自分がこれまで描いたことのないような不安や悲しみをぶつけた絵を見て、書店での立ち読みだったのにもかかわらず、私は涙が止まらなくなった。思い出していたのだ。薄く淡くしか色を載せられず子供らしさを失った風景画のことを、自分のいいところを少しも認められないような自画像のことを。そして私は突如として、大学は医学部に進学することを決めた。

塾の先生や家庭教師の先生に相談して、私はそれから猛勉強を始めた。その当時は絵画療法とかアートセラピーなどという言葉は知られていなくて、精神科医になることを自分の目標に定めたのだ。英語は苦手だったけれどいい先生に教えてもらっていたのでなんとか届きそう、数学はもともと得意だったのを伸ばした感じ、理科は高校の担任が二年間同じ化学の先生だったことも幸いして、問題集や参考書を借りわからないところを教えてもらった。思い込みというのは素晴らしい力を発揮するもので、大学までほとんど勉強せずに進学できる学校にいたのに、高校二年生の時には医学部受験しても差し支えない偏差値に届いていた。勉強しながらも、精神病理の本や絵画療法の本を読み漁った。しかし私はたった一つ、重要なミスをしていた。

三年生に進級する前の三者面談で、担任の先生がおそらく、まさか私が両親に話していないとは思わずに「Tさんはこのまま順調に行けば希望の大学の受験は大丈夫だと思います」と満面の笑みで言ってしまったので、私はしまったと思った。私は浅はかにも、こっそり受験して合格通知を見せて、その時初めて親に土下座でも何でもしようと企んでいたのだ。一体何のことだ、と始まって、私は医学部行きたいんです、と言わざるを得なくなった。認めてもらえようはずがなく、私はそこで受験を断念した。

しかし、そのまま学校に残る気持ちは持てずに、結局自分の取り柄は絵を描くことしかなくて、都内にある他の美大を受験した。大学ともなればずば抜けた才能を持った人もいて、負けていられないという気持ちで作品を作る、そのピリピリした感じがたまらなかった。学校の課題だけでなく、友人と趣味で撮ってきた映画も本格的に発表したいという気持ちも芽生えてきた。やりたいことがたくさんあって、駆け抜けるような日々のある日、一通の手紙が私のもとに届いた。自分の通っていた小学校が隣の学校に合併吸収され廃校になる機会に、同窓会を開きます、というものだった。少子化で都心の学校が廃校になるのは珍しい話ではないが、なくなっちゃうのかあの学校、と思ったら普段は全く行く気のない同窓会に、行ってみようという気になったのだ。

小学生から二十代ともなると、姿が変わって誰だか一瞬わからない友達もいた。お母さんになって二人目を妊娠中の友達もいて、まだまだ自分のことばかりの我が身を振り返るとすごいなぁ、と思ったり。誰が来ているんだろうとあたりを見回して、まさか此処に来るはずのない、と思い込んでいた人の姿を見つけて、私は夢を見ているんじゃないだろうか、と思った。

「久しぶり。」こういう時は、月並みな言葉しか出てこないもので、O君が去ったあとに皆で書いた色紙にも「元気でね」とか何の変哲もない事を書いたのを思い出した。O君はあの頃と少しも変わっていなかった。すらりとして短い髪で・・・と思っていたら「Tは全然変わらないなぁ、髪型も同じだ。すぐわかったよ」と、先に言われてしまった。O君は上京してデザイン系の専門学校に通いながら、CDのジャケットをデザインする仕事をしているのだという。O君が東京にいた事に驚きながら、私は今美大に行ってるんだ、というと「さすが!」と言われ、もう仕事してるなんてすごいよ、焦るなぁと言ったら、鞄の中からちょっと恥ずかしそうに、自分のデザインしたCDを取り出した。「今日、もしTに会えたら見せたいなと思って持ってきたんだ」はにかんだ笑顔も、子供の頃と変わってない。モノクロームの、なのに優しい感じのO君らしいデザインだった。私も作品のデータでも持ってくればよかった、と言いながら、O君と出会ったことで私の思い描いた、叶わなかった夢のことは話せずにいた。会っていなかった長い時間が嘘みたいに昔のままはしゃいだのに、私たちはメルアドも交換せずに、元気でね、頑張ってね、と言って別れた。会えただけでもう、充分嬉しかった。

就活をしなくてはいけない時期に映画を撮ることに没頭してしまったために、卒業後の進路が決まっていなかった。他大の院に行こうか卒業をのばすか、と決めかねている頃に近所の絵本専門店に「スタッフ募集」の張り紙を見つけた。条件は美大を卒業していること、そこの店は子供向けの造形教室を併設しているので、店員をしながら曜日によっては子どもたちに絵も教える。私はその店で今まで何冊も絵画療法の本を買っていて、アートセラピーの教室を開いていることも知っていた。家から歩いて3分の場所に、届かなかったと思っていた私の夢は転がっていたのだ。その店で働いた一年半あまりは、働いたというよりも精神修行に近いものがあった。自分に足りないものを日々見せつけられ、たくさんの挫折を味わった。それでも、子どもたちと一緒に絵を描き、絵画療法の勉強ができて夢が思わぬ形で叶えられて満足していたのに、幸せは長く続かず、年配の店長の健康不良や諸々の理由で、突然お店が閉店することになってしまった。

一緒に働いていた他の店員は、都内の別の絵本専門店に移っていったけれど、私はなんとなく同じことをする気力が起こらなかった。近所にとりあえずのバイトを見つけて働き出すと、居心地が良くて次の仕事を真剣に探す気持ちがなかなか起こらず、とりあえずのはずが居ついてしまった。目的も見いだせずに漫然と過ごす日々に、いけないと苛立ちを感じながらも過ごしていたある日に、東日本大地震が起こった。毎日、TVには映画だと思いたい程の惨状が映し出され、さらに原子力発電所の事故で放射能汚染の不安が広がっている。自分も余震に恐怖したり停電に困ったり、食料物資不足を肌で感じたりしながら、自分の出来ることといったらこまめに電気を消すことくらいしかなかった。でも、私はすっかり忘れていたのだ。あの場所で私にできることが、たったひとつあるじゃないか。

私は、今。あの場所に行くために今、私をただちに必要としている人がいないのではないか、そんな風に思ったら可笑しかった。代わりの利かない仕事も持っていないし、いつもそばにいることを望む人もいない、それが今の私には逆に幸運だ。捨てるものも、置いていくものも何もない。だから私は、大きなトランクにいっぱいの画用紙とクレヨンを詰めて、出かけよう。子どもたちと一緒に絵を描くために、私の夢を、叶えるために。




今回は麻雀に全く関係ない記事ですが、今回の震災について考えているうちにこの話が生まれました。とんでもない長文になってしまいましたが、最後まで読んでくださった方、どうもありがとうございました。
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